紫煙をくゆらす肖像

諏訪 澄(ジャーナリスト)

諏訪 澄
1931年生まれ。東京都立大学修士課程修了。名古屋放送入社。主に報道畑を歩み、役員を務める。著書に『広島原爆8時15分投下の意味』(原書房)、共訳書に『千畝ー1万人の命を救った外交官 杉浦千畝の謎』(清水書院)がある。

タバコが気管支や肺にとって「悪い」かどうかは、なお議論の余地があるようだが、敢えて「良い」といい切ってしまうには、愛煙家たちも、いささか二の足を踏むことだろう。それでも、なお彼らは燻らし続ける。肉体や精神の活動が一段落した時、ひといき入れる─その玉響の安息が何物にも代えがたいからである。深々と吸い込み、消えゆく紫煙を眺める─その無為の時間を経て、私たちは次の山頂に挑むこともできる。これが喫煙の醍醐味であり、そして─かっては、それを傍らで見る者にとっても、ある種のダンディズム・洒落っ気を感じさせる情景だった。

しかし、こんな単純な感想も、今日の居丈高な嫌煙論者にとっては黙過できないものらしい。スモーカーの「傍らにいる者」とは、まぎれもなく「副流煙」の被害者ではないか─との鋭い抗議が出されてくるかもしれない。理屈は、なんとでも付けられる。ただ、嫌煙論者たちは、「副流煙」(ケッタイな日本語だ。医学者と役人の合作なのだろう)を非難するのと同じ熱意で、その何百倍もの規模で呼吸器に影響を与える「排気ガスの害」減少に取り組もうとしたことがあるのだろうか。あまり耳にしたことはない。

「社会の成熟度は、それの構成員たちが、いかに自らを『笑いもの』にできるかによって測られる」とは、戦前の中国人ジャーナリスト・林伍堂の言葉だが─声高に嫌煙を叫ぶ人たちは、総じて規格品のようにマジメで、あまり「笑い」とは縁がない。むろん、自らの在り方に、それを向けようなどとはしない。彼らは、ひたすら純粋無垢な使命感を振りかざしタバコの廃絶を─タバコ文化の絶滅をも目指す。ここでは、彼らにとっての「異端邪説」を、いくつか披露してみる。

怒りのチャーチル像

喫煙のダンディズムを採り上げようとすると、紙巻きタバコよりも、まず葉巻・パイプに眼が向く。前者は日常的で、その選り好みは、しょせん銘柄の違いに落ち着く。対するに、後者は、やや非・日常的と見られ、「小道具」も付いてまわる。シガー・カッターはヘンケルに限る─といった話題も豊富になる。 

その葉巻だが─20世紀の代表的スモーカーとしては、かっての大英帝国・首相チャーチルが挙げられる。ビッグ・サイズの葉巻コロナ・コロナをくわえ、指でVサインを送るポートレイトは切手にされるまで有名になった。ただ、これは第二次大戦の動向が連合国側優位に回った時点からのもので、開戦時、こんなポーズをとる余裕はなかった。

ナチ・ドイツは破竹の勢いでフランスを降伏させ、ヨーロッパを席巻、ダンケルクに追い詰められたイギリス軍は、命からがら欧州本土から撤退した。続いて、ドイツ空軍は猛烈な空襲を続けた。「バトル・オブ・ブリテン」の開幕。連日、数百機の爆撃機・戦闘機が襲いかかり、イギリス本土に上陸する構えさえ見せた。

危機のさなか、国民に団結を呼びかける首相の姿を撮影・宣伝することになり、スタジオにカメラマンが呼ばれた。首相は椅子に腰掛け、ポーズをとる。照明が当てられ、クローズ・アップの顔に焦点が定められた。準備が整った時、カメラマンは歩み寄り、くわえていたトレイド・マークの葉巻をその口から抜きとった。チャーチルは、この「無礼な写真屋」を下から睨みつけた。その時、シャッターが押された。 「イギリスは、絶対にドイツ空軍に制圧されない」と鋭い眼光で不屈の意志を示す肖像写真の傑作が生まれ、新聞・雑誌・ポスターを飾ることになった─。

タバコを持つスターリンの手

チャーチルは好みの葉巻を周囲に勧めた。大戦中、アメリカ・ルーズベルト大統領、ソヴィエト・スターリン書記長らと、テヘランやカイロで会談をした折り、3人が葉巻を楽しんでいる写真が残されている。

それらのシーンで、スターリンは常に右手でタバコを持っている。これは、彼の左手が右に比べ短かった事情によると考えられる。S・モンテフィオーリの近著『スターリン/青春と革命の時代』(白水社)に、若年のヨシフ・ジュガシヴィリ(スターリンの本名)の正面からの全身写真が掲載されている。それを見ると、左手が明らかに右手より短い。これが先天的なものか、あるいはグルジアで銀行強盗を働いた時などの事故によるものなのか、現在なお明瞭でない(彼の2人の兄は、いずれも乳幼児で死亡。そしてヨシフの左足の第3・第4指の間には膜があり水掻きの形になっていた)。

レーニン没後の権力闘争に勝ち抜き、恐怖の大粛清を行ない、彼が絶対権力を握った時から、ヨシフの全身の写真撮影は、神経質に扱われることになった。取り巻きはピリピリし、「片手落ち」などといった胡乱な言葉を使ったヤツは、即刻、「収容所」送りになるかもしれなかった─。

少し脇道に逸れるが─例の銀行強盗の罪で、彼はシベリアに流刑となった。なんとか逃亡し、ロンドン・ウイーンなどに亡命した。1913年、ヨシフは、ウイーンのシェーンブルン宮殿から南西にある「ペンション・シェーンブルン通り」に滞留、レーニンからの課題論文を書いていた。今日なお残っているペンションの壁に、彼のレリーフが掲げられ観光客の眼を惹いている。

同じ時期、宮殿北東の下町に、アドルフ・ヒトラーなる貧乏画学生が住み、似顔絵描きなどで細々と暮らしていた。つまり─30年後、不倶戴天の仇敵として死闘を繰り広げる2人は「ご町内」の間柄だった。宮殿近くの並木路の散歩で、すれ違っていたかもしれず、界隈のビア・ホールで隣り合わせに座っていた可能性もある。ただ、ヨシフはレーニンに倣ってパイプを燻らしていた。他方、アドルフは、今日の嫌煙家の次ぐらいにタバコ嫌いだった。2人が接近する機会があったとしても、親愛な関係になったかどうかは疑問である。

鈴木貫太郎への贈り物

ここで日本の葉巻愛好家として、終戦の大業をなし遂げた海軍大将・鈴木貫太郎に登場してもらう。1945(昭和20)年5月7日、78才の高齢で、アメリカ軍による連日の空襲下、彼は首相に就任した。その一週後、敵国大統領ルーズベルトの訃報がもたらされた。鈴木は少数のスタッフと図り、「アメリカ国民に対する弔意」のメッセージを同盟通信社を通じて送らせた。同時にNHK海外向け放送でも、同じ追悼文を流し、「特別の音楽」を奏させた。他方、ベルリン陥落寸前だったドイツの首脳部は、「戦争犯罪人の死で転機……」と燥いだ。欧米の新聞は、この対照的態度に関心を示し、トーマス・マンなどの知識人は、衝撃を受けたことを告白している。

この時に遡る9年前、「二・二六事件」で、当時、侍従長を勤めていた鈴木は「君側の奸」として自宅で反乱軍部隊に襲われ、数発の弾丸を浴びせられた。奇跡的に生き延びたが─この事件は、当然に、彼の死生観を決定付けた。彼は、世の常の人のようには、個人の死を、また生を、重要関心事とはしなかった。彼の視野に大きなものとして映じてきたのは、国家の生死だった─。

その鈴木が宰相になった、昭和20年の戦況は、日本帝国にとって絶望的な形で進行した。硫黄島が陥り、沖縄も奪われ─それでも「本土決戦・一億特攻」の狂信を制御するのは容易でなかった。そしてポツダム宣言・原爆投下─ここで鈴木は、暴発を抑えて戦争を終結させるべく、天皇に「聖断」を仰いだ。

内外にわたる終戦の手筈・事務が、すべて完了した8月14日深更、阿南惟幾陸相が首相を訪ねてきた。陸軍・主戦派の主張を代弁し、あえて強硬意見を展開してきた非礼を詫びた。鈴木は「その立場上の意見として承っていた」と応じた。そして阿南は「南方からの到来物」といって、葉巻一包みを差し出した。陸相を送りだした書記官長に、鈴木は「彼は暇乞いにきた」といった。数時間後、阿南は自決した。主戦派への訣別の意志表明としての死だった。

葉巻をくわえVサインを送るチャーチルの姿は朗然たるものだが、鈴木首相のそれには、この阿南の「形見分け」の情景が付いて回る。そこに悲愁の色が漂ってくるのは是非もない。ただ─鈴木その人についていえば、敗戦国家の首相になる運命ではあったが、間違いなく彼はグッド・ルーサー─「悪びれるところない敗者」たりえた。透徹した認識・判断を持ち、断乎とした行為で貫いた。その過程で、愛好した葉巻は一助となったことだろう。つまり─今日の嫌煙論者たちの父母・祖父母たちも含まれる数十万・数百万が、無駄な死を遂げないですんだことに、葉巻も力あったといえよう。

戦後、彼は千葉県・野田市・関宿の故郷に帰り、梅の実を摘み、芋を掘り─晴耕雨読の日々を送っていた。その彼を、昭和20年12月初旬、幣原内閣の外相・吉田茂が、娘・麻生和子を連れて訪れている。枢密院議長への就任依頼だった。鈴木は固辞したが、情勢は、それを許さず、結局、承諾させられた。その折り、吉田は葉巻を持参していったと考えられる。この後も吉田は、時折、葉巻を贈っている。晩年の「ご奉公」の合間、2人は紫煙を楽しみ、洗練され、いくらか皮肉な巷談に興じていたかもしれない。鈴木は1948(昭和23)年4月17日、天寿を全うした。

(※愛煙家通信No.2より転載)

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