歴史を変えた愛煙家たち(1) 吉田 茂[1878-1967]

吉田 茂:外交官、政治家。東京帝国大学政治学科卒。第四十五、四十八、五十一代内閣総理大臣。従一位大勲位。

世界の舞台で学んだ外交と葉巻

わが日本で最も葉巻が似合う政治家、それは吉田茂だろう。

第二次世界大戦敗戦後の日本を荒廃から立ち直らせた政治家である。「臣 茂」として昭和天皇への奉仕に徹した保守本流の人、その反面、海千山千楼主人を号する座談の名手、極上の葉巻で人を煙にまく、傲岸不屈、「ワンマン」の名をほしいままにした男であった。

土佐自由党領袖、竹内綱の五男として東京神田に生まれた茂は、三歳で父の親友吉田健三(実業家)の養嗣子となり、養母士子(『言志四録』の著者佐藤一斎の孫娘)に躾けられ、昭和天皇の教育係であった杉浦重剛の日本中学に学び、学習院にすすんだ。彼の生涯を貫く皇室への忠誠心の根源はここにある。一九〇六年(明治三十九)東京帝国大学卒業と同時に外交官試験に合格し、中国の天津領事館へ赴任。日露戦後の大陸経略の第一線が初舞台となる。

一九〇九年(明治四十二)イタリア公使を務めた牧野伸顕伯爵(大久保利通の次男)に認められて、長女雪子を妻とする。その縁で第一次大戦講和条約の日本全権委員となった牧野の随員となり、首席全権西園寺公望やその随員近衛文麿と行をともにする。戦後世界の体制を決するパリ講和会議の末席につらなり、列強代表の駆け引きを実地に見聞した。この体験は外交官としても政治家としても掛け替えのないものであったに相違ない。

同時に、ここで葉巻の妙味もおぼえたのではなかったか。

帰国後、外務事務次官のポストを射止めるも、軍部と対立。イタリア大使、イギリス大使を経て退官する。以後、野にあって岳父牧野伸顕や元老西園寺公望らとともに軍部独裁に異をとなえ、及ばずながらも日独伊三国同盟回避に奔走する。日米開戦に批判的立場を堅持、大戦末期には終戦を策する近衛上奏文にかかわって憲兵隊に拘束され、獄舎の憂き目も味わっている。「葉巻を大事に」──このとき家人に伝えた一言が憲兵の耳に入り、箱ごと没収、バラバラにほぐして調べたあげく、火に投じられたという。吉田の無念、いかばかりであったろう。

一九四五年(昭和二十)八月敗戦。戦後処理に組閣された東久邇宮、幣原喜重郎の両内閣で吉田は外務大臣に登用され、マッカーサー元帥率いる連合国軍総司令部(GHQ)との折衝を一身に担うという重責を負う。元帥との初対面に際し、葉巻をすすめられて、「それはマニラでしょう。私はハバナしか吸いません」と断わったのは有名な話。

吉田はイギリス大使のころ、ホテルの廊下ですれ違った紳士の葉巻の香りにひかれ、銘柄を尋ねるようにと娘にあとを追わせ、「これはヘンリークレイです。あなたのお父上の良いご趣味に敬意を表します」との答えを聞き出させたほどの通人。ホンモノにこだわる意地をみせたのであろう。占領下にあっても人間としては対等、矜持を失うことはなかったのだ。とはいえ、対日管理方針のもと日本の民主化を性急に求めるGHQとの対応は筆舌に尽くしがたいものであったに違いない。そのストレスをはたしてハバナは癒しえたのだろうか。

首相吉田茂に届けられた、絶品の葉巻

吉田に、首相の大任がまわってきたのは一九四六年(昭和二十一)四月。第一党となった日本自由党総裁鳩山一郎が公職追放者に指定され、急遽、党首に迎えられたのだ。いわばピンチヒッターではあったが、吉田にためらいは許されず、占領下の現実を直視し、憲法改正をはじめ日本民主化政策の遂行に立ち向かうべく、組閣にあたる。しかし、終戦後の激しいインフレの時期、労働運動は高揚する一方で、六百万人の労働者が「吉田内閣打倒、社会党政権樹立」を叫ぶ二・一ゼネラルストライキを引き起こす。

吉田は、四七年(昭和二十二)の総選挙で一旦敗れるが、翌年十月、吉田民主自由党内閣を再発足させ、さらに翌年一月の総選挙で過半数の議席を獲得、安定政権を確立する。

吉田の最大関心事は、講和条約の締結にあった。一日も早く、占領の軛を脱し、国際社会に復帰することである。それには均衡財政・単一為替レートの設定、さらに税制改革と行政整理といった難題があり、それにともなう摩擦が下山・松川・三鷹といった事件を惹起し、民心を不安に陥れることも続いた。吉田は、政局安定を求めて、保守合同を模索する。

そんな折、朝鮮戦争が勃発(一九五〇年六月)し、米ソの冷戦が発火点に達する。アメリカは、当然のように再軍備の圧力をかけてきたが、吉田は、「まだ日本経済は脆弱であり、経済力の確立こそ自由陣営に貢献しうるはず」と抵抗を繰り返した。

一方、国内では時局を反映して、講和の締結をソ運(現ロシア)・中国を含む連合国全体とするか、自由主義国家とのみ結ぶか、全面講和か片面講和か、国論は真っ二つに割れていた。吉田は断然後者を選び、一九五一年九月八日、サンフランシスコにおいて対日講和条約に調印、同日、日米安全保障条約を締結した。

吉田は、講和に身命を賭した。調印にいたるまでの日々、彼は酒もたばこもいっさい断って、精魂をその成功のために注ぎ込んだ。調印式終了後、宿舎にもどった吉田の机の上に絶品の葉巻が届けられていた。送り主は講和会議の議長を務めたアメリカ合衆国国務長官アチソン。それには「お好みのシガーを何十日も止めておられた由。めでたく調印となった今、存分に召し上がっては如何」との手紙が添えられていたという。

吉田のシンボルは葉巻と白足袋

好みの葉巻は、ハバナ産の「コロナ・コロナ」であった。オーデコロンの「ピノー」の香りが混ざり合って良い匂いがしたという。マッチは軸が長くて折れにくい英国ブライアント&メイ社のもの、シガーカッターはドイツのヘンケル社製を愛用した。

吉田は和服を好み、羽織袴に白足袋がよく似合った。生活水準の旧に復さぬ敗戦直後においてもなお、格式を重んじる姿勢に、マスコミはこぞって「白タビ宰相」と評してやまなかった。和服にくつろぎ、ゆったりと葉巻をふかす姿は敗戦日本の貧しい庶民にとっては高嶺の花。人によっては傲然と映ったかもしれない。しかし外交官として国の威信を背負い、諸国の首脳と対峙してきた吉田にとっては当然の嗜みであったろう。そしてそれは、明治人として真の和魂洋才を身につけた人ならではの装いでもあった。

ページトップへもどる